
イギリスに所有している家の管理をお願いしている子から、連絡が来ました。
「2週間後に入るはずだったアパートが、急にキャンセルになってしまったの。オーナーが売ることにしたらしくて……。少しの間、そちらの家に滞在させてもらえませんか?」
困っているのが伝わってきました。
私は、ほとんど迷わずに
「もちろん。3カ月くらいなら大丈夫だよ」と返事をしました。
家賃もいらないと思いました。
それが自然だと思ったからです。
そのあとで、少しだけ引っかかりました。
私は普段、社会の「弱者保護」について、どこか距離を置いて見ています。
制度が大きくなりすぎているのではないか、とか。
その隙間を利用する人もいるのではないか、とか。
どちらかと言えば、少し懐疑的に。
なのに、彼女には即答だった。
この違いは、何だろう。
人類は思ったよりずっと早く、弱い個体を助けていたらしい。
イラクのシャニダール洞窟で見つかったネアンデルタール人の骨には、重い障害を抱えながら生き延びた痕跡があるという。
人類学者のマーガレット・ミードは、
「文明の最初の証拠は、治癒した大腿骨だ」と語ったそうです。
誰かが寄り添わなければ、折れた骨は治らない。
弱いものを守ることは、理想というより、
生き延びるための、ごく現実的な選択だったのかもしれません。
人が安定した関係を築けるのは、せいぜい150人ほどだという説です。
150人くらいまでなら、顔が見える。
事情も分かる。
「あの人は本当に困っている」と、自分の感覚で納得できる。
それを超えると、相手は少しずつ「数字」になる。
彼女は、私の150人の中にいるのだと思います。
だから迷わなかった。
もし彼女が、ただの「受給者」や「統計上の弱者」という言葉だけの存在だったら、
私は同じように即答できただろうか。
少し、分かりません。
小さな範囲でなら自然にできることが、
大きな仕組みになると、途端に疑問に変わる。
それは正義の問題というより、
距離の問題なのかもしれない、と最近思います。
顔が見えると、助けることは行為になる。
顔が見えないと、助けることは制度になる。
どちらが正しいのかは、まだ分かりません。
ただ、自分の中にある
「顔が見えると差し出せる」という感覚は、
思っていたよりずっと根深いものだったようです。